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日中友好の架け橋 ― 内山完造 ―

カテゴリー:地域のグルメと情報

2015-08-20

utiyama[1] 内山完造氏は、1885年岡山県後月郡吉井村(現・岡山県井原市芳井町)に内山家の長男として生まれ、上海で内山書店を開き、日中友好のために生涯を捧げた偉大な先駆者です。

 内山氏は12歳で大阪へ丁稚奉公に出た後、商家の店員として働きました。その後、大学目薬参天堂へ入社し、上海出張員として中国に渡りました。 

 上海で教会へ通っていた内山氏の妻みきが日本語の聖書が乏しいことに気付き日本から取寄せて売ったところ好評だったため内山氏が文学書なども仕入れて販売するようになり、自宅の玄関先に内山書店が誕生しました。

 この内山書店は、来店する人を信用しきった完造夫妻の分け隔てない対応で次第に中国人から信頼を得るようになり、著名な中国文化人も多数立ち寄りました。その中の一人が中国近代文学の基礎を築いた魯迅です。
(写真2枚目、左から魯迅、内山完造)

 当時中国人を蔑視した日本人が多かった中、民族・人種の差別をせず中国人も一人の人として対等に付き合う完造の姿勢が、反日・排日運動で荒れ狂う上海でも地元の人々に支持されました。

utiyama2.jpg 1945年わが国が敗戦を迎えて以来、上海在住日本人居留民の代表委員として中国残留邦人の帰国交渉に渾身の力を注ぎました。
その後1953年三万人余りの日本人が無事帰国できたのも、完造の「人はみな対等・平等」の精神による生活信条が根底にあったからだと思います。

このような完造・みき夫妻の歩みは、「日中友好の架け橋」と称されました。

                                     
 終戦後帰国した内山氏は、日本全国で800回を超える「中国漫談」を講演、日中友好協会創立に携わり、初代理事長を務めるなど、日中友好・国交回復実現のために尽力しました。


utiyama3.jpg

 そして1959年、中国人民対外文化協会へ訪問中に病に倒れ74歳の生涯を閉じました。墓碑は生前の遺志により上海に建立され、芳井町にある生家には記念碑などがあります。

 また、成福寺檀徒の家庭に生まれた内山氏は、親交の深かった住職によりその偉業をたたえられ、同寺において永代に供養されています。utiyama4.jpg